
古田武彦記念古代史セミナー2025 詳細が決まりました!
今回のテーマ「卑弥呼はどこにいたか」
今回のテーマ「卑弥呼はどこにいたか」
今回は古田先生の「邪馬壹(壱)国」「九州王朝」説と違う説を唱える先生方にも講師として登壇して頂きます。 |
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仁藤敦史 (にとうあつし) 先生 |
国立歴史民俗博物館歴史研究部教授(2008~2025年) 福岡市教育委員会・市役所に文化財専門職として入庁・在職 橿原考古学研究所で奈良県内の発掘調査を長年行ってきた。 国立天文台、科学研究部、特別客員研究員 |
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9月 月例会報告
【日 時】 | 令和7年9月27日(土曜日) 13時~17時 |
【会 場】 | 中央区・勝どき区民館 【会場参加者14名 リモート参加6名】 |
第一部 (研究発表と懇談会) |
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1.研究発表 題名:「女王の都する所」 橘高 修氏 ①Ⅰ・倭人伝行程文の限界、Ⅱ・複数回にわたる帯方郡使の訪問、Ⅲ・二分される行程文、Ⅳ・「自女王
国以北」、Ⅴ・皆鯨面文身」、おわりに(六つの論点)。 Ⅰ①「千余里」は正確か、②距離表示が正確でも末盧国の場所は不明、③末盧国から伊都国は北東方向。 Ⅱ①伊都国での出入検査、②女王国と帯方郡間に頻繁な交流。 Ⅲ①里程行程文に日程行程文が直接接続、②日数での距離表示は倭人からの伝聞による、③戸数表示も同じ。 Ⅳ①「自女王国以北」は二か所に記載、②卑弥呼のいた場所が「大和」ならその北は京都府だが、その北海上に壱岐・対馬はない。③従って「大和説」は否定される。 Ⅴ①『古事記』の証言、②神武記の伊須気余理比売説話、③彼女は鯨面=「鯨(さ)ける目を見たことがなかった、④「女王之所都」はやはり九州。 Ⅵ①千余里は約百km、②(結論)女王の都する所が九州内のどこにあったか特定できないが、大和ではないことは証明できた。。
①古田先生の提唱される説とは異なる解釈が披露された(特に里程と日程記事を直接連結、末盧国の位置等)ため、会場から様々な質問と意見が出されました。 ②説明・配布資料は要領よくまとめられ、発表も丁寧でした。 ③ただ、里程問題の最重要記述である「自郡至女王国萬二千余里」に全く言及されなかったことに強い違和感を覚えました。(発表45分、質疑65分)
①では先月の読書会に関連して調べた結果を示され、 ②では農業・養蚕・畜産の成立ち説話と朝鮮語との関連から、『記』は『書紀』よりも編集年代が後年、との可能性を引き出されました。(10分) |
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第二部 (勉強会と読書会) |
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最終回なので、全体のまとめとして、①全体構成と要点を再確認すること、②補章「神話と史実の結び目」の要点を抽出すること。
①はじめに、第一~第十四章、結びにおける論述の概要を解説、 ②補章を構成する九節についてその要点を説明。ただし、うち二節は『続日本紀』と『万葉集』に関する事項だったため、説明を省略された。
質問や意見が少し出ましたが、特に取り上げるほどではないように感じました。(説明・質疑40分)
持統紀全体のまとめ。
①通説学者がみる「持統天皇紀」の特色、②「持統紀」の重大な出来事(10件)と重要施策(5件)、③「持統紀」の記事分類(9項目)の説明と分類一覧表の提示、③記事分類から見えてくる「持統紀」の特徴を解説。
①「物品賜与」や「行幸(目的不明)」に関する記事が多いのは、バブル期だったのではないか、との意見が出て、それについて他の方々から、 ②つまり、九州王朝が衰退し近畿天皇家が実力を増していった。 ③この結果、地方の特産物などが近畿に集まった。 ④証拠は、この時期の地方からの産物に関する木簡が近畿で多数出している、などの理由が示されました。 (説明質疑35分)
ご意見・質問はメールで【info@tokyo-furutakai.com】下さい。 |
10月 月例会
【日 時】 | 令和7年10月25日(土曜日) 13時~17時 |
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【会 場】 | ||
【第一部】 | 1. 研究発表 |
題名:「天武・持統紀トピックス」 新保 高之氏 |
2. 懇親会 |
フリートーク | |
【休 憩】 |
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【第二部】 | 1. 勉強会 |
題名:「古田武彦著作集」から 新保 高之氏 『ここに古代王朝ありきー耶馬一国の考古学』 その1 |
2. 読書会 |
題名:『日本書紀』を読む その1 新保 高之氏 「雄略天皇紀」 |
11月 月例会
【日 時】 | 令和7年11月29日(土曜日) 13時~17時 |
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【会 場】 | ||
【第一部】 | 1. 研究発表 |
題名:「私のホツマツタエ」 尾木 由起子氏 |
2. 懇親会 |
フリートーク | |
【休 憩】 |
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【第二部】 | 1. 勉強会 |
題名:「古田武彦著作集」から 新保 高之氏 『ここに古代王朝ありきー耶馬一国の考古学』 その2 |
2. 読書会 |
題名:『日本書紀』を読む その2 新保 高之氏 「雄略天皇紀」 |
ー旅行計画のお知らせー
10月21日(火)~21日(金)下記の訪問先を訪ねる3泊4日の旅を計画致しました。 |
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宮地嶽神社の「筑紫舞」と大島・対馬の旅計画書 |
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■予定表 (変更の場合あります) |
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古代に真実を求めて第二十八集 『列島の古代と風土記』
古田史学の会・出版記念講演会 |
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① | 講演 講師 |
「日本書紀の災害記事が示す王朝交代」 都司嘉宣氏(元・東京大学地震研究所准教授) |
② | 講演 講師 |
『風土記』が拓く大和朝廷以前の歴史 正木裕氏(元・大阪府立大学理事・講師) |
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古代史講演会in 池上会館報告 講師:服部静尚氏
これらのテーマごとに2時間の講演がなされ開演後、活溌な質疑応答、意見交換が行われて閉会になりました。 1、『日本書紀』難波宮造営記事は34年ずらされていた。 ①九州王朝事績の盗用手口、正木裕氏は『日本書紀』各所に34年ずらし盗用があることを示した。 ②古田武彦氏が解明した「持統天皇の吉野行き」は34年前の白村江戦前の軍事拠点視察だった。 ③持統紀の蝦夷朝貢記事は、34年前の斉明紀の蝦夷朝貢記事の一部だった。 ➃複都詔は、すでに完成し使われていた都(大宰府)の存在をも示している。 2、条坊都市はなぜ造られたのか ①律令官僚による法治・大官衙官庁・条坊官舎はセット ②大宰府の条坊はそこが都であった証拠 ③大宝律令の前に飛鳥浄御原(大宰府)律令があった。 |
https://www.youtube.com/@hattori_yao チャンネル登録をお願い致します。 |
次回「第10回」は10月19日(日曜日) 14時から16時 題目 【白村江戦と筑紫都督府そして日本国誕生】 |
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≪トピック 24≫ |
奈良・富雄丸山古墳出土の鏡の初公開 |
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国内最大の蛇行剣などが出土した奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半、円墳)から2024年にみつかった銅鏡3枚のうち1枚が、前漢ー新の時代に中国で製作された大型の「虺龍文鏡」(紀元前1世紀末~後1世紀初頭)と判明し、奈良市教育委員会などが、発表した。直径19.1cmと国内で確認された虺龍文鏡40枚のうち最大。製作から副葬までに最大約400年が経過した可能性がある 奈良 副葬品 異なる時代 複雑な流通過程か? 市教委によると、逆S字形の文様が特徴で龍や虎も表現されている。重さ844kg。大型の虺龍文鏡はウズベキスタンやロシア南西部でも出土、市教委は「古代ユーラシアで交易交流がなされたことを示す」と説明した。残る2枚は後漢代の「画像鏡」(2世紀末~3世紀前半)と、魏代の「三角縁神獣鏡」(3世紀中頃)これまでの調査で出土した盾形銅鏡(4世紀後半)を含め、異なる時代の鏡が副葬されていたことになり市教委は「複雑な流通過程があったのではないか。鏡の製作や流通、保有の実態を研究する上で重要」とした。市教委によると、通常国内で見つかる虺龍文鏡は10cm程度で、これまでの最大で、弥生時代の伊都国の王墓とされる平原遺跡(福岡県糸島市)の約16.5cm。他の2枚も20cm前後の大型鏡。三角縁神獣鏡は、大王墓とされる桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)などで出土のものと同じ鋳型で作られた同笵鏡。 |
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